もともとつらつら思考録

浪人生が日に思った事とかを書く(主に読書記録)

学ばなければ道は見えないのか:赤本の裏表紙問題

玉琢かざれば器を成さず、人学ばざれば道を知らず


受験生必携の赤本(教学社より)の裏には、中国の古典である『礼記』よりこんな言葉が引用されている。


受験期間中(勉強しているとは言っていない)はブログの更新をやめておこうと思っていたのだが、この言葉を見て色々と頭に浮かんだので書き留めておく(受験生が勉強したくない理由を挙げ連ねて駄々こねているだけ)。



別に単体で見るならば、関心はしてもどこもおかしくはない名言なのだが、僕は世界史選択の受験生、この言葉の典拠である『礼記』を含む四書五経を基本書とする儒学の思想が、受験勉強の象徴である赤本と結びついていることにどうにも嫌悪感を感じてしまう。



少しでも中国史を齧った人ならわかることだが、中国の官僚任用制度である科挙儒学を極めた者を選定する入試制度だった。科挙の科目に儒学が選ばれた理由は、儒学の思想が"統治者"にとって都合が良かったからだ。


今の日本の教育に他人に特定の政治的思想を強制しようという意図はないように思える。だが大学入試制度はいかにも統治者(何も政治家、官僚だけではない)にとって都合の良い制度に思えてならない(公教育なのだから当たり前だという意見は今は置いておく)。


忌憚なく言うと受験勉強なんてあるレベルまで行けば、クイズ大会と視力検査の複合に過ぎない。それは僕の周りの先生達も認めている。そして彼らは受験勉強の内容そのものよりも、受験勉強の過程そのものの方に価値があると言う。だが受験勉強という体験によって得られるものとはなんだろうか。まさか彼らは統治者の与える課題になんの疑問も抱かずに無心で努力できる人間になることを価値あることだなんて言うのだろうか。


もちろん大学進学率が低い時代の選抜方法としてなら、試験という制度は間違っていなかっただろう。だが大学進学率が上がり大学全入時代と言われる今、大学入試は一大学の問題ではなく社会問題なのだ。そう言えばこの前読んだ『数学でつまずくのはなぜか』という本には、興味深いデータがあった。学校教育の中での数学・語学の成績は「創造性」「積極性」「独立心」とは負の相関を持ち、逆に「我慢強い」「堅実」「学校への帰属意識が強い」「如才ない」といった性質と正の相関を持つという。当たり前の話だが、国が求めているのはそういう人材なのだ。


散々文句を言ったが、何も頭ごなしに受験勉強とか高校教育を否定したい訳でもない。何より高校で習わなければ、『礼記』がどうだとか儒学がこうだとかは一生知らなかった訳だ。だが僕は同じ"道"に関する言葉なら、赤本の言葉より禅のこの言葉が好きだ。


道は眼に見える事物には属さない。見えない事物にも属さない。知られている事物に属さないし、知られていない事物にも属さない。求めるなかれ、学ぶなかれ、名づけるなかれ。ただそのうえにあれ、心を大空のごとく広げるのだ。


学ばなくても"道"が見えた人もいるはずだ。学ぶだけで"道"が見えるなんて傲慢甚だしい。だが、学ぶことで見える"道"もあるはずだ。"道"は多様にあり、その人が送ってきた人生が道になり、個性となるのだ。書きながら分かった、僕が怒っていた理由は、社会全体が大学入試制度によって僕たち子供に道を、そして"道"を一つであるかのように見せていることなのだと思う。