もともとつらつら思考録

浪人生が日に思った事とかを書く(主に読書記録)

リテラシーと受験勉強:問題文の中に答えはあるのか問題

 受験において現代文という科目は、センスの問題だとか問題文の中に必ず答えはあるとかいう人それぞれあやふやな物言いをされていて、実際大多数の受験生からすると点数が安定するでもない困ったちゃんな科目だ。国語の読み取りの問題は、小学生くらいのころの「倒れたごんの近くにある栗に気づいた時の兵十の気持ちを答えなさい」というような問題から正統に進化してきたように思える。このころの国語の問題はほとんど誰だって解けたはずだ。というより、年を取るにつれ昔の国語の問題なんて屁でもないと思えるようになるはずだ(中学受験は除く)。でも大学入試の国語の問題の点数は安定しない人が多い。おかしい。どれもすべて問題文の中に必ず答えはある問題のはずだ。そんな視力検査でもあるまいに、問題文の中にあるはずの答えが見えないなんてことがあるのだろうか。

 なんて駄文を並べたが、「問題文の中に必ず答えがある」という前提の立て方がそもそもファンタジーなのだ。

 リテラシーという言葉がある。よくメディア・リテラシーとかネット・リテラシーとかいう使い方をされる言葉だ。これに対し重大な誤解をしているから先のような考えに陥るのだ。リテラシーというのは、そこに描かれている情報“単体”から何を読み取れるかではなく、自分の頭の中のデータベース(内なる図書館)に即してどのように解釈できるかということだ。映画で例えるとわかりやすい。スクリーン上で描かれた物事のみでその印象をかっこいいとかかわいいとか言い合っているうちはただの感想だ。そんなものは十人十色であって正しい感想なんてありようがない。だがそこに描かれているものが何を隠喩しているだとか、どういう時代に描かれたからこういう世相を反映してるだとか、他の映画のどういうシーンのオマージュであるだとか、そういうことを語って初めて映画評論家などと称されて文章でお金が稼げるようになる。

 問題文だけを読んで答えが出てくる問題だってたくさんある。だがそのような問題はほとんど誰にだって解けるから、そこでは点数の差は一切つかない。じゃあどこで差が付くのか。問題文だけを読んでもわかり辛い問題だ(そもそも偏差値が高いといわれる大学の問題では、問題文全体をしっかり読もうとすると時間が足りなくなってくる)。

 じゃあ何を勉強すればいいのか。本を読めばいいといいたいところだが、ほかにもっとするべきことがあった。政治経済とか地理とか理科とか、そういう受験に使わない科目でもしっかり授業を聞いておくことだ。世界史とか倫理の授業でやったことがいきてくるというのは特に英語の入試問題は顕著だ。入試が3年の4月からだとか2年の秋からだとか英語は英単語と文法をやればいいとか現代文は対策ができないだとか、そういう風にとらえている時点でアウトで、ある意味毎日さまざまなメディアに触れること自体が受験勉強なのだ。なんて嫌な世の中だ。

 まとめると、こいつが受験勉強をしてないという背景を知らないと、この記事が受験勉強をしてない自分を正当化して慰めているだけということがわからない、それがリテラシーだというわけだ。