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もともとつらつら思考録

高校3年生が日に思った事とかを書く(主に読書記録)

童貞でも「純愛と性愛」論争がしたい!

 電車内の、映画(小説原作)の公告にこんなものがあった。

 

「もう一度泣きたい人は書店へ」

 

 この広告のセンス自体は置いておくとして、今日のテーマは、社会と性愛だ。

 

 

ブラスト公論 誰もが豪邸に住みたがってるわけじゃない[増補新装版]

ブラスト公論 誰もが豪邸に住みたがってるわけじゃない[増補新装版]

 

 

 

 この本には、秀逸な思考実験がある。お涙頂戴映画をくさす文脈の中で現れるが、あくまで思考実験としての面白さを取り上げたいだけなので、変に捉えないでほしい。

 

<人間、気持ちよくないことはしないと思うのよ。「泣く」って本来ネガティヴなことじゃない?でも、実際にはそれは気持ちいい行為なんだよ。誰でもさ、「笑ってたい?泣いてたい?」って言ったら「笑ってたいって答えるのに>

<それって結局、泣きたいという感情を弄ぶのが好きなんじゃないの?>

<「泣く」っていう宣伝文句を一応全部「ヌく」って置き換えてみなっていう>

 

 そう、泣くことと抜くことを同一視しているのだ。拒否反応を示す人も多いかもしれない。僕だっていささか強引な話だと思う。だがここで問題にしたいのは、我々がどうしてこの対比に拒否反応を示すような人間に育ってしまったか、ということだ。どちらも同じ感情の発露だというのに。

 

 よくよく考えてみると、セックスとか性そのものにはタブー視される謂れは無い……と思う(宗教の教義とかは知りません)。というよりもむしろ、これらは恋人が愛し合う形の完成形とでも言えるのだから 、もっと大事に扱われるべきなのだ。

 

 僕は別に感動とか泣きとかを売りにしている作品を低俗だとか感動ポルノだとか言いたいわけでは無い。ただ、抜くことにももう少し居場所を与えてやってもいいと思うのだ。「純愛」だけが素晴らしい愛なのだろうかという疑問を皆が抱くべきなのだ(というよりも"純愛"という言葉自体がそういうプラトニックファンダメンタリズムに浸かりきった言葉なのだ)。

 

 学校の保健体育の授業はセックスについて、種を残す仕組みと、性感染症と、セクハラとしか扱わない。そりゃあ日本人がセックスを嫌いになって、純愛信仰になるのも当たり前だ……という短絡的な思考は良くないとわかっていてもしてしまう。

 

 やっぱり社会に文句を言いたくなってくる。学校が性について語れない、童貞が愛について語れないこんな社会こそが。確かに僕は童貞だ。だが愛について語る資格が無いわけではな無いはずだ。そして僕以外の奴らももっと愛について話すべきなのだ。だがこんな僕でも一つわかることがある。愛についてくどくど語る童貞は、絶対にモテない。

 

 あえて言おうーー愛について語る童貞が間違っているのでは無い、愛について語る童貞がモテない社会こそが間違っているのだと。