もともとつらつら思考録

浪人生が日に思った事とかを書く(主に読書記録)

神と紙、どっちのせいか?

塾の世界史の先生(以下先生)に「教科書を2冊並べて、比べ読みしてみるといいですよ」と言われたので、学校で使っていた山川出版社の『詳説世界史B』と、先生オススメの帝国書院より『新詳世界史B』を比べ読みしてみた。すると、同じ教科書なのに記述の仕方が異なるところが存在した。授業中には、「その教科書の記述は間違っています」という先生の発言もあったりした。教科書だからといって必ずしも正しい訳ではないということか。そもそも絶対的に正しいもの(そんな神の創ったものみたいな)なんて存在するのだろうか。


歴史とは何か (岩波新書)

歴史とは何か (岩波新書)

2015年9月時点で85刷が発刊されている、超ロングセラーのこの本には、歴史を学ぶ人間が知るべき様々な考え方が書かれている。その1つが、歴史における「事実」信奉だ。


歴史的事実の正しさは、歴史家が正しいと認めているという一点にのみ依存している。歴史的に正しいとされる「事実」は容易に変わりうるということは、鎌倉幕府の成立が1192年から1185年に変わったというニュースが表している。なぜ1192年から1185年に変わったのか。別に源頼朝がタイムマシンに乗って1185年にタイムスリップした訳でも、神様が1185年だと我々に教えてくれた訳でもない。歴史家がそれを1192年と認めていた証拠より、1185年と認める証拠が妥当性を得たからに過ぎない。


その歴史的事実をもとに、言葉を使って歴史書の文章紡ぐのも、歴史家だということも忘れてはならない。2100年に書かれた歴史書でも、「1192年に鎌倉幕府は成立した」説を正しいと信じている歴史家が著したなら、そこでは1192年説が事実となる。E・H・カーは以上のことより、「歴史の書物を読む場合、関心はその本の歴史的事実ではなく、その歴史家に向けられるべき」と述べる。


どんなに「正しらしさ」を帯びていたって、それは「妥当」に過ぎないという事実は、歴史だけではなく、科学全てに当てはまる。ゲーデルは数学でさえ完璧なものではないと証明した。E・H・カーは「印刷業が発明されてから、これは誤った意見の普及を助けるものだと批評家が言い始めるまでどれくらいかかったことか」とも述べた。しかしそれと同時に、真実なんて存在しないというニヒリズムに浸るのも良くない。近代を乗り越えた人類は、この様なバランス感覚を持つ必要がある。


このブログを書いているのは高校生だ。すべて正しいと信じるのはバカらしいし、かといって正しくないなんて訳でもない。