読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

もともとつらつら思考録

高校3年生が日に思った事とかを書く(主に読書記録)

「みんな」はどこにいる

50歳近くの先生曰く、80年代、松田聖子の楽曲は、ミリオンを達成していなくても「みんな」知っていたらしい。時が経つにつれ、ミリオンを達成した楽曲も、一部の人しか知らなくなり、いわゆるAKB商法のような本当にその音楽家(広義)のオタクしか楽曲を知らなくても、オリコンのチャートの上位に居座るようになったらしい。ミリオンと言ったって所詮100万枚であり、その数は日本の人口の1%にも満たない。本に至っては、10万部売れればベストセラーという始末。先生は、それがポストモダンと呼ばれる時代だと仰った。価値観・世界観の多様化は進むところまで進みつつある。


さて世界観が多様化しているということは、観じる世界を構成するものである言語も多様化していることに他ならない。いや本来、言語は多様なものだったのだ。


レトリック認識 (講談社学術文庫)

レトリック認識 (講談社学術文庫)


以前このブログでも取り上げたレトリック感覚の続編で、今日の話題以外にも様々な問題意識を持たせる良書だ。


言語は「みんな」の総体であると言っても過言では無い。伝える相手、伝わるコミュニティがないと意味を成さないからだ。アラビア語で書かれた書物は、アラビア語を読めない人からしたらちんぷんかんぷんだが、アラビア語を読める人には立派な意味を持つ。そして、その書物アラビア語を読める「みんな」に向けて書かれたものなのだ。


だがその「みんな」は新陳代謝を重ねるうちに、違う「みんな」へと変わっていく。それと同時に言語も新しい時代の「みんな」の形に沿うように変わっていく。現代日本では、枕草子を読解できなくても別にすさまじきものではない(と信じたい)。

そしてところ変われば言語も変わる。方言は、「標準語」と対をなす存在で、「みんな」のことばではない。


世界観が多様化する今、言語がさらに多様化している。インターネットコミュニティは世界の分離と繋がりの両方を深める。その中で独特な言語表現も続々生まれる。その言語はあくまでそのコミュニティ内の「みんな」のための言語である。もしかしたら「みんな」というのはとても狭い領域の中の存在なのかもしれない。