映画は父を殺すためにあるを読んで:モラトリアムらず孝行せい
映画は父を殺すためにある―通過儀礼という見方 (ちくま文庫)
- 作者: 島田裕巳
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2012/05
- メディア: 文庫
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映画を、宗教学の概念である"通過儀礼"を通じて解体し、それによる(主に)日米の文化の違いというもの見てみようというのが本書の構成だ。
通過儀礼とは、人生の節目に前の段階から次の段階へ変わったことを確認する儀式のことで、成人式や、結婚式、葬式などが例として挙げられる。
この本で取り上げられているのは子供から大人への成長の際の通過儀礼だ。日本での名は成人式だが、一口に成人式と言っても日本の様な形骸化したものから、マサイ族の様なライオンと格闘するといった試練などまで様々だ。
人は必ずしも成人式の瞬間に大人になることを実感するわけではない。この本は『ローマの休日』を大人への成長物語として捉える。王女としての仕事の退屈さ・窮屈さに辟易し、「一日中好きなことをして気ままに過ごしたい」と言っていたアン王女は、訪問中のローマでついに宿舎から飛び出してしまう。そこで出会った男と、今までにない恋愛・自由に溢れた1日を経験した。だが彼女は自分が1日いなくなっただけで国が大混乱になっているのを知り、王女としての自分の役割、そして使命を受け入れ、再び宿舎に戻る。その顔からは気品が溢れている。わがまま娘から一国の王女へと生まれ変わったからだ。
こうした、社会の中での義務・使命というのを受け入れることこそ、大人になることの一要因……らしい。それは分かる。大変よく分かる。分かるけど納得したくはない様な気がする。そしてそれが「子供」の理屈だということも分かっている。どうやら僕はまだ通過儀礼を経験していないらしい。