レトリック感覚を読んで:書いている僕と、書かれている言葉との不機嫌な関係をめぐって
- 作者: 佐藤信夫
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1992/06/05
- メディア: 文庫
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レトリック、すなわち言葉を巧みに用いる表現の技法についてこの本は、書かれている。載っている技法は様々で、直喩・暗喩といったような国語の授業で習うようなものから、列叙・誇張といった普段から気に止めることもなく使っているものまで解説がなされている。
それ自体も興味深く、普段の読書の楽しみをより深くし得るものだが、この本のエッセンスはそこではないと思う。
通常「レトリック」と聞くと、小綺麗な言葉を並べて文章を着飾るためのものとか、他人を言い負かすためのものといったイメージを持たれがちだ。しかしそれは違う。言葉というものは、辞書に載っている意味だけでは限界があるから、僕たちは「レトリック」を使うのだ。
先ほどまで僕は、左右のこめかみに押しつぶされるんじゃないかというような頭痛に襲われていた。実際に頭が潰されるわけでは無いのに、どうしてこんな言い方をするのか。とても痛かったからだ。どうして「頭がとても痛かった」とは言わないのか。それでは痛みがどのようなものか、僕の言いたいように表現できないからだ。
辞書に載っている言葉だけでは限界がある。それが言語だ。だが辞書も進化していく。単語の意味は日々増えていくのだ。
「おとなしい」という単語の語源は、「大人しい」という一種の比喩だ。そしてそれが今や国語辞典に載る、「おとなしい」の「意味」となっている。
「まだ打つ手は残っている」と言った時の「手」は、普通「手」そのものではなく「方策」を指している。そして辞書の「手」の欄には「手段・方法」という意味が載っている。
言葉を生み出したのも、使うのも人間である以上、言葉は人間に左右されるものだ。そして言葉を使わなければ、生きていけない以上、僕たちは巧みに用いる必要があるのだ。日々進化し、摑みどころのない言葉を。