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もともとつらつら思考録

高校3年生が日に思った事とかを書く(主に読書記録)

まだまだ読書と知識の話

26世紀青年 [DVD]

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26世紀青年』という、余りにもアホな邦題(原題は『idiocracy』で、直訳すると『アホ主義』といったところか)がついた洋画を見た。コールドスリープから、何もかも平凡な主人公が目覚めると、2505年になっていたーーというあらすじだが、この未来描写がとても悪意(いい意味)に満ち溢れている。

頭の良い人は、景気がどうこうと理由をつけて子供を産まず、それに対して頭の悪い人は何もかも気にせず子作りに興じる。アメリカでは現代でもかなり深刻になっている問題らしいが、それが500年間続いた結果、アメリカにはアホしかいなくなってしまっていた。アカデミー賞は「ASS」という90分間尻だけを映し続ける映画が取り、ニュースは「fox news」しか無いため、プロレスラーと売春婦のようなキャスターが怒鳴り散らすだけ(配給は20世紀foxであるため、怒られて予告編すら作られなかった)。大統領はポルノスターでプロレスラーの威勢が良いだけの能無し。畑にはスポーツ飲料が撒かれているので食糧不足。そんな世界に送られた主人公は、人類一の天才として諸問題の解決を要求される。皮肉が効いた作品だ。

映画のラスト、主人公が大統領に就任する時の演説に「この国でも、大昔はオカマだけが読書をしたわけじゃ無い」という部分がある。この映画には他にも「過去に帰ったらみんなに読書するように言ってくれ」のような読書=知性のような図式が成り立つような部分が見られる。

だが、読書=知性のような考え方こそ、最も避けるべきものでは無いだろうか。前に取り上げたように、知性という観点からすると頭に残るものが無ければ、読書をしても無為な時間を過ごしただけである。むしろ読書という行為をしたというしょうもない満足感を得るだけ悪性かもしれない。そして、この映画のように何かを頭に残すものであれば、それは読書で無くても良いはずだ。若者の読書離れを防ぐために、何も味のしない本を読ませても、それこそアホになるだけである。読書という言葉で、知識を得ることを抽象的に表しているということかもしれないが、この映画を見て「よし読書しよう」と意気込んだ人が読んだ本が、ポルノ雑誌では笑えない。

この映画では「昔は尻が画面に映っても(「ASS」のこと)、それが誰の尻でなぜ屁をするのか考えていた」と「考えること」についてしっかりとフォローがなされる。こんなフォローの仕方があってたまるか。

合理的に好き

「生理的に嫌い」というフレーズは使い古されてるだけあってやはり便利なもので、「嫌い」というネガティヴな感情に理由付けをしなくて済む。この生理的に嫌われる要素を挙げてみると、例えば顔とか清潔感とかオーラとかだったりするわけで、それは天が与えたものであって、自分で勝ち取るものでは無いような気もする(清潔感は別か)。


この「生理的」、要するに「合理的」では無いという意味であり、ならば合理的に好きになる人間も存在することになる。


小学生の時にモテるのは運動ができる人間だった。中学、高校と上るにつれ、顔とか背格好とかが重要なファクターになる。このまま大人になるにつれどうなるかは知らないが、やっぱり"中身"が重要になるのではないか(と思いたい)。


人を外見で判断するのが「生理的に」であり、中身で判断するのが「合理的に」と定義できる。そして年をとるほど、合理的に判断される機会が増える。もちろん生理的に好かれることを悪いことだと言うつもりは無いし、合理的に好かれない人間を浅いというつもりも無い。


中学生の頃、塾の先生に「30過ぎたらモテると思うよ」と言われた。当時は深みとかが出るタイプと判断されたのかと思ったが、もしかすると先生の言いたかったことは「君は合理的に好かれるタイプ」だったのかもしれない。だけど30過ぎてモテるって人生はなかなか大変そう。


※結構発想元

ブラスト公論 誰もが豪邸に住みたがってるわけじゃない[増補新装版]

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また読書と知識の話

東京に行くと、大きな書店へと行くのがすっかり慣習になってしまっていた。御茶ノ水三省堂書店、新宿の紀伊国屋、渋谷のジュンク堂書店などなど様々だが、行くたびに、ここにある本をすべて読むことは絶対に出来ないのだなと感じる。むろん、アレクサンドリアアッシリアに置かれた図書館の時代から言われていたことだろう。だからこそ、人は良書を求める。悪書を読むことはすなわち、良書を読む機会を失うことに他ならないから。


ならば何を読めばいいのだろうか。この途方も無い量の本の海で生き抜くための、羅針盤と地図は誰が与えてくれるのだろうか。


古典を読めばいいという人・本は多いがこれは正しいのだろうか。『国富論』は、『プロ倫』は、『エミール』は、『詩学』は現代社会で通用するのか。NOじゃないだろうか。科学、宗教、哲学その他諸々様々なことが近現代には変化が見られた。少なくとも戦後に書かれた本でなければ、知識の有効度は薄い気がする。


ではその戦後に書かれた本の中で何を読めばいいのか。そこが非常に難しい。前回の記事で書いた様に、著者の背景に目を向けるにしても、戦後だと評価が定まっていない。学問の細分化により専門書の量が増え、初めの一歩が難しい。極め付けは、入門書の粗製濫造だ。歴史、英語、経済の入門書の棚を眺めると眩暈がしてくる。


我々高校生はオススメ本リストを常に求めている。塾の先生にオススメ本リストを尋ねると、「僕の時代から徐々にそういう物が消えつつあった。デカルト、カント、ショーペンハウアーが古典の王道とされているくらい。多分、何でも読んで、その上で全てを知ることはできないって意識して、傲慢にならないことが大事なんだよね」と。うーん、困った。無知の知は時代を超えて通用するようだ。古典の中でもソクラテスは読んだ方が良いのかもしれない。


国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)

神と紙、どっちのせいか?

塾の世界史の先生(以下先生)に「教科書を2冊並べて、比べ読みしてみるといいですよ」と言われたので、学校で使っていた山川出版社の『詳説世界史B』と、先生オススメの帝国書院より『新詳世界史B』を比べ読みしてみた。すると、同じ教科書なのに記述の仕方が異なるところが存在した。授業中には、「その教科書の記述は間違っています」という先生の発言もあったりした。教科書だからといって必ずしも正しい訳ではないということか。そもそも絶対的に正しいもの(そんな神の創ったものみたいな)なんて存在するのだろうか。


歴史とは何か (岩波新書)

歴史とは何か (岩波新書)

2015年9月時点で85刷が発刊されている、超ロングセラーのこの本には、歴史を学ぶ人間が知るべき様々な考え方が書かれている。その1つが、歴史における「事実」信奉だ。


歴史的事実の正しさは、歴史家が正しいと認めているという一点にのみ依存している。歴史的に正しいとされる「事実」は容易に変わりうるということは、鎌倉幕府の成立が1192年から1185年に変わったというニュースが表している。なぜ1192年から1185年に変わったのか。別に源頼朝がタイムマシンに乗って1185年にタイムスリップした訳でも、神様が1185年だと我々に教えてくれた訳でもない。歴史家がそれを1192年と認めていた証拠より、1185年と認める証拠が妥当性を得たからに過ぎない。


その歴史的事実をもとに、言葉を使って歴史書の文章紡ぐのも、歴史家だということも忘れてはならない。2100年に書かれた歴史書でも、「1192年に鎌倉幕府は成立した」説を正しいと信じている歴史家が著したなら、そこでは1192年説が事実となる。E・H・カーは以上のことより、「歴史の書物を読む場合、関心はその本の歴史的事実ではなく、その歴史家に向けられるべき」と述べる。


どんなに「正しらしさ」を帯びていたって、それは「妥当」に過ぎないという事実は、歴史だけではなく、科学全てに当てはまる。ゲーデルは数学でさえ完璧なものではないと証明した。E・H・カーは「印刷業が発明されてから、これは誤った意見の普及を助けるものだと批評家が言い始めるまでどれくらいかかったことか」とも述べた。しかしそれと同時に、真実なんて存在しないというニヒリズムに浸るのも良くない。近代を乗り越えた人類は、この様なバランス感覚を持つ必要がある。


このブログを書いているのは高校生だ。すべて正しいと信じるのはバカらしいし、かといって正しくないなんて訳でもない。

「みんな」はどこにいる

50歳近くの先生曰く、80年代、松田聖子の楽曲は、ミリオンを達成していなくても「みんな」知っていたらしい。時が経つにつれ、ミリオンを達成した楽曲も、一部の人しか知らなくなり、いわゆるAKB商法のような本当にその音楽家(広義)のオタクしか楽曲を知らなくても、オリコンのチャートの上位に居座るようになったらしい。ミリオンと言ったって所詮100万枚であり、その数は日本の人口の1%にも満たない。本に至っては、10万部売れればベストセラーという始末。先生は、それがポストモダンと呼ばれる時代だと仰った。価値観・世界観の多様化は進むところまで進みつつある。


さて世界観が多様化しているということは、観じる世界を構成するものである言語も多様化していることに他ならない。いや本来、言語は多様なものだったのだ。


レトリック認識 (講談社学術文庫)

レトリック認識 (講談社学術文庫)


以前このブログでも取り上げたレトリック感覚の続編で、今日の話題以外にも様々な問題意識を持たせる良書だ。


言語は「みんな」の総体であると言っても過言では無い。伝える相手、伝わるコミュニティがないと意味を成さないからだ。アラビア語で書かれた書物は、アラビア語を読めない人からしたらちんぷんかんぷんだが、アラビア語を読める人には立派な意味を持つ。そして、その書物アラビア語を読める「みんな」に向けて書かれたものなのだ。


だがその「みんな」は新陳代謝を重ねるうちに、違う「みんな」へと変わっていく。それと同時に言語も新しい時代の「みんな」の形に沿うように変わっていく。現代日本では、枕草子を読解できなくても別にすさまじきものではない(と信じたい)。

そしてところ変われば言語も変わる。方言は、「標準語」と対をなす存在で、「みんな」のことばではない。


世界観が多様化する今、言語がさらに多様化している。インターネットコミュニティは世界の分離と繋がりの両方を深める。その中で独特な言語表現も続々生まれる。その言語はあくまでそのコミュニティ内の「みんな」のための言語である。もしかしたら「みんな」というのはとても狭い領域の中の存在なのかもしれない。

日本史とか世界史とか

ブログの更新をすっかり忘れていた(受験生なのだし当然か)。自分は文系高校生で、世界史を選択しているのだが、これがとても面倒くさい。日々暗記に追われる中で、本を読んだり、ブログを更新する暇が無かったということで許して下さい。

世界史は社会科の選択科目の内の1つで、他に日本史・地理・倫理政経とあるが、多くの学生は、日本史と世界史のそれぞれ片方しか受験で使わない(僕もだが)。それはとてももったいないことだと、先日とある本を読んで思った。

経済史入門―経済学入門シリーズ (日経文庫)

経済史入門―経済学入門シリーズ (日経文庫)

経済史に主眼を置いたこの本は、西洋的な視点にとらわれず、かつ"非西洋"である日本がなぜアジアの中で真っ先に経済成長出来たかについて述べられている。

この本の語る歴史は、日本史や世界史といった枠にとらわれておらず、鎌倉時代元寇江戸幕府、イギリス、西洋東洋など様々な要素が絡み合った、正しくグローバルなものだ。

こういう本を読むと、世界史・日本史といった日本の教育の為に作られた枠組みだけでなく、「人類史」といったようなもっと広い枠組みでの歴史について勉強したくなる。

文科省主導の高大接続システム改革会議では、高校教育の改革として、「歴史総合」という科目が挙げられていた。「自国のこととグローバルなことが影響しあったりつながったりする歴史の諸相を近現代を中心に学ぶ」とある。この科目の実現と、歴史のつながりが意識された、暗記ゲームではない歴史教育が始まることを切に願っている。

参考リンク:文科省・高大接続システム改革会議

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/koutou/064/index.htm

アウトサイダーを読んで:生きることを考える機会

アウトサイダー(上) (中公文庫)

アウトサイダー(上) (中公文庫)

アウトサイダー、それは社会秩序の内側に留まることを拒絶する者たち。この本では歴史に名を残した彼らの作品・人生を通じてアウトサイダーとは何か、アウトサイダーはどう救済されるべきかについて書かれている。

様々な人間の思想が分かりやすく要約されていて、つくづくこの世は生き辛いものだと思わされる。アウトサイダーとはある種社会からあぶれた人間群であり、現存する彼らの思想は人生に敗れた者の置き手紙に喩えることができる。しかしそれは、常人(つまりインサイダー)の十億倍は人生について考えた、というより考えなければならなかった人間の思想であり、当然それは生半可な人生論とは文字どおり一線を画した人生論なのだ。

書けることがありすぎて、他に何を書けばいいのか分からない。だが、新しい人生の見方を取り入れることのできる紛れもない名著。