もともとつらつら思考録

浪人生が日に思った事とかを書く(主に読書記録)

読書と知識の問題

先日、授業でグループ討論をした時、自分が「〜〜みたいな事をこの前本で読んでですね」と言ったら「本かよ」「自分の意見じゃないんかい」と言われた。自分の発言も今思えばおかしいが、向こう方の発言でふと考えが浮かんだので晒してみる。

読書(別にネットサーフィンでも授業でも良い)によって得られた知識と僕の考えの境界とは何だろうか。

【読んでいない本について堂々と語る方法】という本がある。

読んでいない本について堂々と語る方法

読んでいない本について堂々と語る方法

【我々は単に「内なる図書館」を内部に宿しているだけではない。我々自身がそこに蓄積された書物の総体なのである(p.96)】

読書というのが自分の内なる知識体系の形成過程だということになる。

読書という行為の知識を得るという部分に着目すると、読んだ本の内容というのは自分の脳内に絶えず吸収されることになる。だが現実にはそうはいかない。メモをしておかないと、過去に読んだ本の内容なんて忘れてしまうのがざらだ。

もう一度先ほどの本から引用する。【書物というものが、読んだかどうかすら忘れてしまうほど、読み始めた途端に意識から消えていくものであるとしたら、読書の概念自体がいかなる有効性も持たなくなる。どんな本も、それを開くにしろ開かないにしろ、別のどんな本とも等価だということになるからだ(p.75)】

読書という行為をしたところでそれは単に視界が文字列を撫でているだけにすぎない。僕は日本語の本以外にも、例えばアラビア語で書かれた本も読むことができる。だがそこからは何も得られていない。そして例え日本語で書かれた本を読んだとしても、そこに書かれた内容を覚えていなければ"読んだ"という空虚な事実のみが残る。

読書とは過程に過ぎない。ということで、僕は最初に挙げたような発言をする必要は一切無く、向こう方もそんな発言をする意味は無かったのだ。向こうは何も覚えていないだろうけども。

機関銃の社会史を読んで:何が人を殺すのか

機関銃の社会史 (平凡社ライブラリー)

機関銃の社会史 (平凡社ライブラリー)

題名に反してかなり万人向け。著者、ジョン・エリスは、この本を「軍事技術の歴史においては、特定の社会集団に共通の願望や偏見が、性能という直接的な問題に劣らず、重要であることを示す本」であるとしている。

機関銃の誕生日を厳密に決めるのは難しい。最初の"実用的"な機関銃は、1861年、アメリカ人のガトリングが発明したものだと言える。機関銃は南北戦争・植民地戦争で使われたが、一躍有名になったのはWWⅠでの大活躍だろう。当時イギリス首相のロイド・ジョージは、死傷者の80パーセントが機関銃によるものだと発言している。これは軍のトップに巣食う、時代錯誤の英雄・精神信仰によるものも大きいのだが、機関銃の殺戮能力の高さが画期的だったことはごまかせない。

さて、ここまでの機関銃をめぐる人間の精神的歪み(過剰な保守思想・人種差別など)も十分面白いのだが、それで終わらないのがこの本の面白いところだ。

【ガトリングはこうした武器が『大隊の必要性に取って代わり、その結果、戦闘や疫病に苦しめられる人間の数が減るだろう』とさえ言っている。】p.35

オッペンハイマーも戦争をしなくなるだろうという考え方で原爆開発チームを指揮していた。毒ガスを最初に開発したフリッツも似た様な考え方だった。

戦争は人類の進化の歴史の必要経費だと言う人がちらほらいる。確かに科学技術にかけてはそうかもしれない。しかし、その様な発言をする人間が存在する時点で、人類の精神は近代、中世からなんら進化していないのだ。

この本の1番のメッセージは技術信仰に対しての警鐘だ。いずれ日没までがネオンになっても、それに向かって意気揚々と歩き、その日没と共に人類も沈んでいきかねないとジョン・エリスは述べる。

機関銃は、赤外線は、核は、人間の暮らす社会をどんな風に変えてきたか。

インターネットは、ドローンは、そしてまだ見ぬ新しい科学技術は、僕たちの暮らす社会をどの様に変えていくのか。そしてどう変えてはいけないのだろうか。

箱男を読んで:本物らしさとレトリック

箱男 (新潮文庫)

箱男 (新潮文庫)

縦横それぞれ1メートル、高さ1メートル30センチほどの段ボール箱。それを被る箱男をめぐる"ぼく"たちの物語。

読者は、箱男の綴るノートを読むことになる。そこには新聞記事、写真、詩、唐突な挿入話、箱の作り方等々、様々な小話が度々差し込まれている。

それは一見本筋とは関係無いのだが、この本のリアリティを高める。

また箱男になってしまう男の心理や、箱の作り方、箱男ならではの"ぼく"の洞察の仕方。どれも安部公房が実際に箱男になったとしか思えないくらい精巧だ。

本当に箱男が街にいる訳は無いのに、この本の中に詰め込まれたレトリックが「実際に箱男がいるかもしれない、いたら興味深いな」と思わせる。

話の中盤から、贋物の箱男と本物の箱男という概念が現れ、読者の脳内を引っ掻き回す。本物の箱男がノートを書く権利を有するらしいが、本物の箱男は1人ではなく、"ぼく"の言葉が指す人物が作中で明らかに変わる。終いには、

『そして"ぼく"は死んでしまう。死んだぼくの上に、君が這い上がってくる』(新潮文庫p.179〜180)

物語はその後も不自由なく続く。

もっともらしい嘘をつくのが小説家の仕事だというのを聞いたことがある。

設定も、主人公も、レトリックも、全て虚構だが本物らしさ、リアリティ、説得力を持つ。ある意味では究極の小説は箱男かもしれない。

映画は父を殺すためにあるを読んで:モラトリアムらず孝行せい

映画は父を殺すためにある―通過儀礼という見方 (ちくま文庫)

映画は父を殺すためにある―通過儀礼という見方 (ちくま文庫)

映画を、宗教学の概念である"通過儀礼"を通じて解体し、それによる(主に)日米の文化の違いというもの見てみようというのが本書の構成だ。

通過儀礼とは、人生の節目に前の段階から次の段階へ変わったことを確認する儀式のことで、成人式や、結婚式、葬式などが例として挙げられる。

この本で取り上げられているのは子供から大人への成長の際の通過儀礼だ。日本での名は成人式だが、一口に成人式と言っても日本の様な形骸化したものから、マサイ族の様なライオンと格闘するといった試練などまで様々だ。

人は必ずしも成人式の瞬間に大人になることを実感するわけではない。この本は『ローマの休日』を大人への成長物語として捉える。王女としての仕事の退屈さ・窮屈さに辟易し、「一日中好きなことをして気ままに過ごしたい」と言っていたアン王女は、訪問中のローマでついに宿舎から飛び出してしまう。そこで出会った男と、今までにない恋愛・自由に溢れた1日を経験した。だが彼女は自分が1日いなくなっただけで国が大混乱になっているのを知り、王女としての自分の役割、そして使命を受け入れ、再び宿舎に戻る。その顔からは気品が溢れている。わがまま娘から一国の王女へと生まれ変わったからだ。

こうした、社会の中での義務・使命というのを受け入れることこそ、大人になることの一要因……らしい。それは分かる。大変よく分かる。分かるけど納得したくはない様な気がする。そしてそれが「子供」の理屈だということも分かっている。どうやら僕はまだ通過儀礼を経験していないらしい。

レトリック感覚を読んで:書いている僕と、書かれている言葉との不機嫌な関係をめぐって

レトリック感覚 (講談社学術文庫)

レトリック感覚 (講談社学術文庫)

レトリック、すなわち言葉を巧みに用いる表現の技法についてこの本は、書かれている。載っている技法は様々で、直喩・暗喩といったような国語の授業で習うようなものから、列叙・誇張といった普段から気に止めることもなく使っているものまで解説がなされている。

それ自体も興味深く、普段の読書の楽しみをより深くし得るものだが、この本のエッセンスはそこではないと思う。

通常「レトリック」と聞くと、小綺麗な言葉を並べて文章を着飾るためのものとか、他人を言い負かすためのものといったイメージを持たれがちだ。しかしそれは違う。言葉というものは、辞書に載っている意味だけでは限界があるから、僕たちは「レトリック」を使うのだ。

先ほどまで僕は、左右のこめかみに押しつぶされるんじゃないかというような頭痛に襲われていた。実際に頭が潰されるわけでは無いのに、どうしてこんな言い方をするのか。とても痛かったからだ。どうして「頭がとても痛かった」とは言わないのか。それでは痛みがどのようなものか、僕の言いたいように表現できないからだ。

辞書に載っている言葉だけでは限界がある。それが言語だ。だが辞書も進化していく。単語の意味は日々増えていくのだ。

「おとなしい」という単語の語源は、「大人しい」という一種の比喩だ。そしてそれが今や国語辞典に載る、「おとなしい」の「意味」となっている。

「まだ打つ手は残っている」と言った時の「手」は、普通「手」そのものではなく「方策」を指している。そして辞書の「手」の欄には「手段・方法」という意味が載っている。

言葉を生み出したのも、使うのも人間である以上、言葉は人間に左右されるものだ。そして言葉を使わなければ、生きていけない以上、僕たちは巧みに用いる必要があるのだ。日々進化し、摑みどころのない言葉を。

第四間氷期を読んで:帰納から導かれる明日

明後日は模試

ブログの更新

前倒し

渾身の俳句(『模試』が青い春の季語)を詠んだところで、感想に移ろう。(思うところがあって内容を変えたら、お題から外れてしまった)

安部公房の本は、新潮文庫から出ている「壁」「R62号の発明・鉛の卵」を1回ずつ、「箱男」を3回読んだことがあり、それぞれが非常に有意義な読書体験だった。

彼の作品は、世間に知られている通り、前衛的で、実験的な作風が多く、そして作品のテーマが面白い。

今回読んだ「第四間氷期」もそうだ。

『現在にとって未来とは何か?

文明の行きつく先にあらわれる未来は天国か地獄か?

万能の電子頭脳に平凡な中年男の未来を予言させようとしたことに端を発して事態は急転直下……』新潮文庫、背表紙より

人類にどのような未来が訪れるか?これは昔からよく論じられてきたテーマだ。有名なものでオーウェルの『1984年』、レイ・ブラッドベリの『華氏451度』などがある(学が無いからディストピア小説しか挙げられてないが許して欲しい)。

この話を通して、安部公房は「未来」に対してどのような解釈を提案したのか。あとがきから抜粋という、無粋なことをさせてもらうと『日常の連続感は、未来を見た瞬間に、死ななければならないのである。(中略)おそらく、残酷な未来、というものがあるのではない。未来は、それが未来だということで、すでに本来的に残酷なのである。その残酷さの責任は、未来にあるのではなく、むしろ断絶を肯じようとしない現在の側にあるだろう』とある。

僕は大人になるのが怖い。僕くらいの年齢なら思っていても不思議じゃないと思う。かといって自分がこどものままで居続けるのは最高のグロテスクだ。今こうやって、高校に適当に通っている日常はいつか終わりを告げる。このまま生き続けたら、大学にしろ浪人にしろ新しい未来が僕を待っている。どっちに転んでも不安しかない。大学の後だってほぼ見えない。未来の無数の選択肢に引っ張られた、奇怪なポーズのマリオネット達が、高校に大学にうじゃうじゃいる。

じゃあ答えはなんだ?不安を感じてどうすればいいんだ?

この話は何も提示しない。公房曰く、未来の残酷さについて内部の対話を誘発することが出来れば、この話の目的は達されたらしい。

そして彼のこの姿勢が間違っているとは思わない。この本は生き方マニュアルでなければ、高尚な学術書でもないし、話題の自己啓発本でもない、"ただの"小説だからだ。そして、それも文学の在り方・読書の理由だと僕は思う。

手垢のついた処世術や、参考書に載ってる生き方なんて知りたくない。自分の頭でこねくり考え、生きていきたい年頃なのだ。

20歳の自分に受けさせたい文章講義を読んで:決意表明代わり

表現能力が重要視される世界になった。作文・小論文・卒論・ES・プレゼン等々、試される媒体を挙げ始めたらキリがない。そしてこれからもこの傾向は強くなるだろう。

そんな社会に生きる僕たちにとって、この本が役に立つか、と聞かれたら正直微妙だ。でも、表現するとか、「何かを書く」というときの心構えを変えてくれることは間違いない。

『われわれは理解したから書くのではない。理解できる頭を持った人だけが書けるのではない。むしろ反対で、われわれは「書く」という再構築とアウトプットの作業を通じて、ようやく自分なりの「解」を掴んでいくのだ』とある。正しくその通りだと思う。そして最後に言われるのが、書け、ということだ。習ったら慣れろ。

その他にも、いろいろなテクニックは書いてあるが、前述の一節に全てが凝縮されていると思う。これから下に書いてあるのは私事なので興味の無い人は戻るボタンを。

高校3年生に進級し、大学受験も控えているのに、こんな風にネットで油を売っている人がどれだけいるのだろうか(できたら(原)油を売って生計を立てたい)。

勉強する時間を増やせば増やすほど、読書に費やせる時間も減っていき、気がつけば、風呂の中でしか本を読んでいない始末。30分も経つとのぼせてしまうので、非常に本を読めていない

だけれども、毎週日曜の夕方から夜にかけてなんとかかんとか本の感想?ブックレビュー?の投稿を続けていく所存ではある。更新しているのを見かけたら、お、やってるな〜という感じであんまり期待せず見てくれたらこれ幸い。